昭和42年01月19日 朝の御理解
私、あの先日、ある教会の先生のお取次ぎをさして頂いたところが、段々こう身につまされると言うか、人ごとではない様な事でございましたが、今朝からそんな事をフッと感じるんですね。もう35年ぐらいの記念祭を迎えなければならないというぐらいの教会。もう云うなら、相当古い教会なんです。
ところが、一向その教勢が振るわない、信者が助からない。始めの間、初代の頃は、相当、人も助かったんですけれども、この頃はその、信者もだんだん減ってしまって、もう僅かばかりの信者で、その教会を維持しておると云う様な感じの状態らしいんです。それで記念祭を迎えなければならんというのに、こんな事ではと云うので、どういう信心さしてもらったら、おかげを頂けれるかという事なんです。こりゃお互いの場合でもですね、永年こうやって信心をしておるんだけれど。
始めの頃は、ようおかげ頂いたけれども、段々おかげが受けられなくなっている、どう云う信心さして頂いたら、おかげが受けられるだろうかと、これは本当によく質問を受ける事でございます。そして、私、その事をお取次ぎさして頂きましたら、あの皆さんご承知でしょうか、あの有名な、山本ひで、山本なんとかと云いますね、やすえか、山本やすえと云う有名な女優が居ります。
あの人のもう、十八番中の十八番と云われてる、夕鶴というお芝居がございます。鶴のご恩返しという民話を、お芝居化したのですね。あるお百姓が、子供達に手負いになって居るその鶴が、子供達がとらまえて、その鶴をおもちゃにしている。そのお百姓さんが、大変可哀そうに思うて、その子供達と、それを買い取って、それをまあ助けたと云うお話。それで、鶴がご恩返しの為に、綺麗な女性に、いわゆる化身ですね。
鶴の化身が、その人のお嫁さんになるという。そして、まあいろいろとそのご恩返しをする訳です。その夫婦仲良う睦まじう行っておったんですけども、だんだん生活が逼迫して参りましたから、それを家内に申しますと、その、が、自分のこの綺麗な毛をむしって、そして、それを反物に織り上げる。それがもう非常な高値で売れる。それでもう一反織れ、もう一反織れと云う訳ですね、その家内に織らせる訳なんです。それを持ってはその、町に出て売ると大変な素晴らしい値段で売れる。
そこにその、まぁ欲が出たんですね。ま、鶴の方は、もう自分はもう、丸裸になる様にしてその反物を織る訳です。最後に、とうとうあの不思議に思ってですね、こうやって反物を織るが、どう言う様にして織っているだろうかと。見てはならないと云う、その部屋を覗かせて頂くと。
それこそ、尾羽打ち枯らしたどころではない、自分の毛をもう、丸裸同様になった鶴がですね、一生懸命その、反物を織っておる姿に触れた。そのまま鶴は元の鶴に戻って、そこを去ったと云う様な哀れなお話しなんです。その事を頂くんですね。成る程やはり、おかげを頂いてから無い命を助けて頂いたといった様な信者が、段々でけて参りまして、そのおかげを頂くんですけれども。先生がその信者をまあ云うならば、利用する。
元を忘れちゃならんばい。あんた方一番始めはどうじゃったの、ああ云う難儀の中から、今日のおかげを頂いておると、ほらまあ無い命を助けて頂いて、医者が見放したって云った様な、その時に神様のおかげで助かっておろうがと。またそれを信者もそれを思う訳です。助けて頂いて本当にこの教会あっての自分だと。本当にあん時助けて頂かなかったならと言う、そのご恩の事を思うて、やっぱり自分はまあ云うならば、その鶴じゃないですけれど、自分の毛をむしってでも、その教会の為に尽くすんですけれども。
段々、もう尽くせなくなってくる者が外れて行く。どうしてその様な事になるのだろうかと。それを、これは私どもの事に、色々ついても考えさせられる事でございます。問題が、次から次と人が助かっていき、同時にそして、無い命を助けて頂いたと云った様な信者氏子がです、愈々信心の尊さ、有り難さと云うものに触れていって、いよいよおかげを受けて行く様な在り方にならなければならんのに、そういうおかげも渡しきらず、又受けもきらず。そして、その信心から離れて行くといった様な事がです、どう云う様な事から、私は起きて来るだろうかと云う事を思ってみなければならんと思うですね。
痛ければ痛い、痒ければ痒いで、やはり痒いのをじっと辛抱するという事はなかなか難しい。痛ければ、やっぱ、こうさすって貰えば楽になる。痒いところを掻いて貰えば、もうすぐその場で、気持ちが良い。
ですから、そこんところを例えてまあ、夕べの御理解から頂きますとです。素直に素直に頼んで行くという事。どうぞとこう素直に頼んでいけば、おかげを頂けれるんですけれども、そのただ頼む頼むだけと云うところの信心が、私はその羽をむしってしまう、その鶴の様な事に、結果になるのじゃなかろうかとこう思うのです。お道の信心はどこまでもです、頼み頼まれるというところがなからなければいけません。
それを信心とは、神恩報謝の生活とも申します。神恩を蒙らして貰う、おかげを蒙らして貰う、それならば、それに報謝する。それにお応え申し上げるところの生活こそが、信仰生活だと、信心生活だとこう云われておる。そこのところが、私は疎かになっておるのじゃなかろうかと云う風に思うのです。
信心があれば有り難い。痒ければ痒いで、それこそ孫の手を借った様に自分の手はどうにも出来ない事がです、どうにも出来ない筈のところがどうにもなって行くんです、確かに。道は開けて行くんです。歯痒い思いをする様な事でもです、お取次ぎを頂いて御理解でも頂きよると、歯痒いどころじゃない、かえって有難うならして頂くんですけれども。それが、そのままになっておる様な事に、私は、段々、おかげの世界を狭めていく様な結果になって行くのじゃなかろうかと。
私どもが、痒いところを掻いて貰うだけの信者であったり、又は、そう云う痒いところを掻いて貰うために信者を利用する様な教会が、今日、まあ、あったら、成る程、それではご比礼は落ちて行くだろう。けれども、これは、よそ事ではない、自分自身の事にも、それを考えさせられるのです。と、同時に、これは皆さんの方の側でも同じ事。痒かところを掻いて貰うだけの神様であり、信心であるとするならばです、これはだんだんおかげが、あの時分には、あげんおかげを頂きよったけれども、この頃はおかげを頂けなくなったと云う様な、もう、永年の信心を頂いておる人からよく聞く事です。
どういう信心したらおかげ頂けるだろうか、と云った様な事を聞く事です。そこに、私は本当の神恩報謝の生活がでけていないのだと。痒いところを掻いて貰うなら、神様がやはり痒い思いをなさることがありはせんだろうか。自分が、神様を歯痒い思いをさしておるところがありはせんだろうか。
と、例えて云うならば、神様の背中を掻いて差し上げる様な信心が、私は必要じゃなかろうか。神様が私どもに、何を求め給うのか、神様の求め給うところには、一つも心を使うわず、奉仕をせず、ただ自分達が求める事だけが、神様の様に思うたり、信心の様に思うておったんではです。私はおかげにならん。成る程、素直に頼まなければならない。どの様な事でも、素直に願わなければならん、いや願わなければおられんのである、頼まなければおられんのである。
ですから、やはり私どもは、神様の願いに対してもです。素直にそれを聞かして貰うという事が大事じゃなかろうかとこう思う。神様の思いに対しましても、あーそうでございましょうと、本当に歯痒い思いをさした事でございましたでょうと。
相済みませんでした、というお詫びるという事と同時に、そこのところの信心に、こちらが入っていく、お互いに痒かところを掻きあう様に、そこから私は、あいよかけよの働きというか、神も助かれば、氏子も助かる。いよいよ有り難い信心が頂けて来るのだという風に思うのです。
これは、教会、または、先生方の側から云うても、本当に悲しい話しです。段々、それこそ何十年という経歴を持った教会が、段々寂れて行くという事は、実にこれは悲しい事という事は、神様が悲しい思いをなさる事であろうとこう思うのです。ここに、例えば、ほんなら、その教会中の責任者である、教会長なら教会長がです、そこのところを悟ってです。私は、今日頂きます様なところに、その願いを持たせて頂く様な信心。
もうこの頃どうもうちの信者は一つもご用がでけんごとなった。もううちの信者は気が利かん、気がつかんと云った様な事だけに、どうすりゃ信者が云うことを聞く事なるじゃろうかと云った様な事ばかりを考えておる様な教会では、だから、ご比礼が立たないと同時に、また、私どもとても、それを思う。
余所ごとではない、そう云う様な事になしてしまう様な事であってはならないという風に、それでもこれは又、皆さん信者側の方から、考えさして頂いてです。成る程、自分は痒かとこを掻いて貰う、痛かとこを擦って貰うだーけの信心。神様も、いや痛い思いをなされるだろう、神様が歯痒い思いをなされるだろうと云うところには、心を使わず。そこのところに信心が入っていかない。
いわゆる、神恩報謝の生活がでけていないという事にです、だんだん、めいめいもおかげを受けられなくなって行くと云った様な事にです、なっては信心が、云うなら、もう、蓋も身も無い事になって来るのです。ですから、ここんところを、一つ、あいよかけよで素直に、例えば、頼むならば、素直に又聞かして頂こうという信心体制が、私は必要であると思うですね。
どうぞ。